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波から渦へ。北斎館これまでの50年、これからの50年。

北斎館は、2026年に開館50周年を迎えます。北斎館がある長野県小布施町は、晩年の北斎がたびたび訪れ、作品を残した土地です。

50年前の1976年、まだ農村風景が残るこの地に、小さな美術館が誕生しました。建設当時は「こんな田舎の美術館に人が来るだろうか」と心配されましたが、この50年で、日本国内はもとより世界から多くの方々に足を運んでいただくようになりました。

近年、海外美術館と連携した企画、現代アーティストとのコラボレーション、キッズルームの新設など、新しい動きを次々と始めています。晩年まで筆を握りその絵を進化させ続けた北斎のように、北斎館も新しい波を起こし続けてまいります。

今回、北斎館を設立当時から知る市村次夫理事長が、北斎館の設立秘話や近年の取り組みなど、これまでの50年を振り返ります。副館長の塩澤耕平が聞き手となり、これからの50年に向けた思いを語りました。

北斎館の設立前夜を振り返って

塩澤北斎館が50周年を迎えるにあたり、設立当時のお話などを伺っていきたいと思います。

北斎館理事長 市村次夫

市村50年前に願っていたより、いまの北斎館は充実していますよ。当時は作品も借用品でしたし、館の維持費を捻出できるかもわかりませんでした。50年で作品がこんなに充実していくとは、思わなかったです。
北斎館の設立前、まずは議会議員や町民有志が集まって、北斎研究会をつくりました。いまでいう設立準備委員会です。みんなで小布施の北斎を研究したり、東京宝塚劇場で森繁久彌主演舞台「赤富士 画狂一代」を観たり、祭屋台を収蔵している他の地域を参考にするため飛騨高山市、富山県まで行ったりしたようです。

北斎館理事長 市村次夫

塩澤北斎館設立の大きな目的の一つは、北斎が天井絵を描いた祭屋台とその文化を保存することだったとお聞きしました。

市村そうです。大正時代までは毎年祭屋台を祭りで使うたびに組み立て、祭りの後に解体して保存していました。とんでもない人手がかかります。昭和の時代から、継続が難しくなり、特別なときだけとなっていました。小布施の文化を残すため、きちんとした収蔵庫をつくらなくてはいけないという考えがありました。

塩澤なるほど。建築的にもそれが反映されたと聞きました。

市村建築当初の北斎館は、2つの倉庫が連なるようなフォルムで、特に祭屋台の収蔵庫の方は、保存設備に費用がかけられました。ガラスで屋台と通路は完全に遮られ、来館者はガラスの洞窟の中を歩くような体験をすることになります。屋台の保管がメインだったということです。

祭屋台展示室

塩澤設立当初は、創設者の市村郁夫さんに指名され、教育委員会の飯沼正治さんが運営に奔走したと聞きました。そこから、北斎の肉筆画を中心に所蔵・寄託作品が増えていったのですね。

安村館長を迎えたターニングポイント

北斎館館長 安村敏信
北斎館館長 安村敏信

塩澤北斎館の増築後、2017年に館長として安村敏信さんを迎えたことが、近年の北斎館にとっては大きかったと考えています。どのようなきっかけで、安村さんに声をかけられたのですか?

市村30代の頃、世界の北斎研究者たちを小布施に招いて、国際北斎会議というのを開いたことがあります。その国際会議に参加してくれた研究者の中に、安村さんがいました。
館長候補を探していたとき、板橋区立美術館で館長を務めていた安村さんが定年になると耳にして、会いに行きました。

塩澤学芸員の能力アップ、館蔵品による企画展の品質向上、海外の美術館との連携は、安村館長がいらっしゃったからこそと思います。

 

若い人に任せ、次世代を育てる

塩澤安村館長は、学芸員が展示の企画を担えるよう、学芸員を育てることに力が注いでいます。

市村館長の的確な指導により、学芸員は自分たちで走らなくちゃいけないという気持ちをもったと思います。その後、塩澤さんに会いました。

塩澤当時、小布施で「ハウスホクサイ」というコワーキングスペースを運営していたのですが、そこに理事長がふらりと訪ねてきてくださいました。

市村塩澤さんのことをよく知っていたわけではないけれど、ホクサイと名付けるくらいだから、北斎に興味があるだろうと(笑)。

塩澤私はネットショップの仕事もしていたので、最初は北斎館のネットショップの運営を手伝わせていただきました。その後、前任の副館長が退任されたタイミングで事務局長にならないかと声をかけていただきました。

 

北斎研究の世界的な拠点を目指して

北斎館副館長 塩澤耕平
北斎館副館長 塩澤耕平

塩澤北斎館は面白い時代に入っていると思っています。理事長は、この5、6年の間の北斎館について変化を感じていることはありますか?

市村ひとつは、研究機能が充実してきたと思います。これまでも北斎研究所がありましたが、やや地域内の取り組みにとどまっていました。
近年、さまざまなイベントを開催したり、海外と連携したりすることで、研究の広がりが生まれています。これからの北斎館は、設立時の目的に沿うべく、世界における北斎研究のハブを目指してほしいと思います。

塩澤50周年関連事業として、2024年にはイギリスのノーリッジ、2025年にはフランスのナントで「小布施の北斎」をテーマにした展覧会が開催されました。
さらに、2026年には、北斎館でアメリカのロード・アイランド・スクール・オブ・デザイン美術館所蔵のロックフェラーコレクションの特別展やフランスで開催した「EXPOSITION HOKUSAI」の凱旋展が予定されています。こうした海外とのつながりについて、どう見ていますか?

葛飾北斎「神奈川沖浪裏」タペストリーに彩られたナント歴史博物館
上町祭屋台天井絵「男浪」(テーマ「水と波」) EXPOSITION 【HOKUSAI】 © David-Gallard

市村本当によかったと思います。1998年に小布施で第3回国際北斎会議を開いたとき、世界の皆様の北斎への関心の高さ、北斎館が果たしていくべき役割を痛切に感じました。当時若手として参加してくれた研究者たちは、いまではその分野の第一人者になっています。今後は、次世代の研究者たちとどうネットワークを築いていくかが重要になってくると思います。

 

新しいものが生まれる美術館を目指して

塩澤次世代といえば、北斎館では現代アーティストとのコラボレーションを行うようになりました。

市村北斎の作品は、今後新たに見つかることはあっても、新しくつくられることはない。だけど、ここを訪れたアーティストが北斎の作品に出会って、刺激を受けて、新しい作品をつくることはできる。生産性が生まれるんです。

塩澤ここ5年で、さまざまな作品が生まれましたね。

市村京都の仏具装飾の技法を使った給田麻那美さんの「おしりちゃん」も生まれましたね。新しいものが生み出される美術館だということが非常に大事です。設立当時にはなかった目標ですが、いまの時代に求められていることだと思います。

給田 麻那美氏作品
 おしりちゃん「あいに」

塩澤これからの50年、「小布施の北斎」を世界の人に知ってもらうには、どのような事が必要でしょうか。

市村最近、映画や舞台などの制作時に、北斎のことで何かあれば、北斎館に意見を聞いてみようと連絡をいただくことも増えています。
海外との連携も、欧米圏だけでなく、東南アジアやアフリカなど、より全世界的になっていくでしょう。
国際情勢によって政治的な交流が難しくなってしまう国でも、文化はその垣根を容易に越えていけるのです。

塩澤北斎館に対して「小布施に行けば、何かが生まれるかもしれない」というワクワク感をもってもらえるようにしたいですね。

市村神奈川沖浪裏が、世界的に認知され、北斎の波が起きました。次の50年は、小布施の怒涛図のように「渦」のように巻き込んでいくイメージです。

上町祭屋台天井絵「女浪」
 

プロフィール

市村次夫 (イチムラ・ツギオ)

1948年 長野県 小布施町 生まれ。北斎館理事長。株式会社小布施堂代表取締役。慶應義塾大学卒。1980年、父親(市村郁夫・当時の小布施町長)の逝去により、長野県小布施町にある家業の酒屋(株式会社桝一市村酒造場)と栗菓子屋(株式会社小布施堂)を継ぐ。以来「町並み修景事業」など、景観や建築を主体とした地域づくりに尽力。

塩澤耕平 (シオザワ・コウヘイ)

1987年 長野県 駒ヶ根市 生まれ。北斎館副館長。2009年、学習院大学卒業。IT企業を経て、医療法人社団鉄祐会で震災後の医療復興に携わる。2017年より小布施町に移住して、コワーキングスペースの運営をしながら、北斎館の副館長に就任。現場の運営、新規事業を担当。カフェガトネロ店主。